□ エッセイ ESSAY


カタン派精神分析

藤田博史
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1,はじめに

天野可淡という作家について精神分析が語り得ることについては勿論限界がある。そもそも精神分析とは哲学のような全体知を目指すものではなく、控えめな部分知の集合によって心的経験を再構成してゆく科学の一手法である。このような精神分析が、もし一人の創造的な作家とその作品についてなにかをいい得るとすれば、それはすでに情緒的な印象や感想を記述することではなく、作品に対峙する者の精神に、知覚記号として与えられた情報、正確にいうならシニフィアン(能記、意味するもの)の総体として作品と作家の創作活動を捉え、その根底に潜むなにものかについて、でき得る限り淡々と記述することであろう。
 ちなみに精神分析におけるシニフィアンは次のように表現される。すなわち、シニフィアンとは、何よりもまず、知覚によってつくり出される記憶可能なすべての差異であり、ひとつのシニフィアンは主体(自我ではない)をある別のシニフィアンへ差し出す(再現代理する repésenter)機能をもつ。つまりシニフィアンについて語られるときには、同時に主体について語られているということになる。
 作家とその作品についていうなら、シニフィアンとは作品の総体でもあり、個々の作品でもあり、個々の作品における細部のことでもある。そしてこのシニフィアンを連鎖させて意味や価値を創り出す能力のことをランガージュと呼ぶ。これはコトバを話すヒト homo loquens に固有の言語習得能力のことである。そしてこのランガージュこそが、言語にとどまらず、ヒトのあらゆる創作活動を可能にしている創造力に他ならない。
 この稿の目的は、きわめて限られた資料を手掛かりにするしかないのではあるが、天野可淡という稀有な作家の創作活動について、精神分析的な視点から最低限どのようなことがいえるのか、その要点について書き留めておくことである。

2,可淡という固有名

 精神分析的な洞察において、固有名は極めて重要な役割をもっている。なぜなら、固有名のなかにはしばしば命名者の欲望が音素やアナグラムの形で織り込まれていることが見出されるからである。しばしば命名者は無意識のうちに自分や自分の親の名前の一部を子の名前のなかに刷り込む。手元にある限られた資料のなかでこの事実関係を確認してみるなら、高校二年生の時に父秀隆 hide-taka から与えられた草月流師範としての雅号である「可淡 katan」という固有名には、すでに命名者である父自身の名前の一部が音素として織り込まれている。以後、作家が本名によってではなく、父から与えられた可淡という固有名によって作家としての同一性を貫いていったということは極めて重要な意味をもっている。なぜなら、父によって刻印された固有名こそが、作家の象徴的な創作活動=ランガージュを具象化する隠喩核となっているからである。誤解を恐れずにいうなら、あらゆる創造性の出発点には、父から与えられた固有名が潜んでいる。

3,母との同一化

 母自身の言葉によれば、可淡は中学一年生の時に出演したテレビのインタビューで「私の母は華道家で、大変尊敬しております。将来は母の様な作家になりたいと思っております」と答えたという。当時母は勅使河原蒼風家元直門として理事当番の役職にあり、可淡にとってもまた、母はお手本であり、見習うべき同一化の対象であった。一般に女性の発達過程では、思春期に差しかかる頃に母の仕種や性格の一部を取り上げて嫌悪を示し、それによって母からの無意識の離脱を図るものであるが、手元の資料を見る限り、どうも可淡にはそのような時期が明確ではない。むしろ母の生き様はそのまま可淡に伝搬してしまったかのようである。
 母は回想の中で「私は娘時代、専門学校にてデザインの教鞭を取り、夜は華道ほか諸々の学校に通い、子供の頃より空き時間を持たない生活をしてまいりました。小学一年生四月の入学時に母を亡くした淋しさがそうさせたのだと思います」と語っている。あたかも「生き急ぐ」という言葉が可淡自身の為にあるのではないかと思われるほど、父の命名によって原動力を与えられた可淡は、母との強力な同一化によって、固有の加速度を獲得し、人形のある風景のなかを駆け抜けていったかのようである。そしてその同一化の根底には母の母(祖母)の死が母に与えた根源的な淋しさがあり、この淋しさを基調にした母の欲望が、今度は可淡において永遠の欠如という苦しみに姿を変えたのであった。だからこそ可淡の作品のなかには一貫して、こういってよければ「疾走する苦しみ」が通奏低音として流れている。この事実を裏付けるかのように、可淡は高校の卒業アルバムに「苦しい青春」と記している。

4,「生と死の幻想」

 母との同一化によって可淡が得たものは、母の欲望のなかに用意されていた「喪失」と「悲しみ」である。喪失は「死」を、悲しみは「生」を象徴する。恐らく可淡は、生け花を活けるように人形を創作したのであろう。足元を切断されすでに死ぬ運命にある切り花は、そっくりそのまま手足を切断されて死ぬ運命にある痩せ細った人形へとメタモルフォーズする。ここで1975年にリリースされたキース・ジャレットの名盤「生と死の幻想」のジャケットデザインを思い出してもよいだろう。ティム・ブライアントが描いた一本の紅いバラ。それは足元が切断された一本の切り花であり、すでに死につつある生命の姿でもある。このアルバムの原題「Death and the flower」は、まさに生け花の隠喩として人形を創作していった可淡の基本テーマに奇妙なくらい符合する。

5, 眼差しと声

 フランスの精神分析医ジャック・ラカンによれば、人間の基本的な欲望の対象は眼差し、声、乳房、排泄物の四つであるという。これは生後間もない子が、母の不在の代わりにつくり出した大切な母の代理物でもある。人は一生を通じてこの四つの基本対象を探し求めている。可淡の人形において特徴的なことは、これら四つの基本対象のうち、特に眼差しと声が人形のなかに深く創り込まれているということである。
 可淡人形の眼差しの特徴は、大きな虹彩と収縮気味の瞳孔である。この状態を医学的に表現すれば、副交感神経の興奮もしくは交感神経の遮断である。副交感神経は睡眠時などに働く安息のための自律神経であり、縮瞳している眼差しは、眠っているときのそれである。つまり収縮した瞳孔は外部ではなく、内部を見ている眼差しと考えることができる。ここに可淡人形の眼差しの秘密が隠されている。一般には、女性が美しく見えるのは瞳孔が開き気味の時つまり交感神経が優位の時であるとされる。それゆえに瞳孔を開く作用を持つアトロピンなどの副交感神経遮断薬は別名ベラドンナ(美しい女性)・アルカロイドと呼ばれる。
 縮瞳により面積が確保された可淡人形の虹彩は、世界を映し出す水面のような銀色の光を放っている。可淡はこれを湖と表現する。そこにあるのは穏やかさを導く副交感神経優位の世界であり、湖の静けさのような魂の安寧の場=睡眠=死の場所でもある。このことを知ってしまえば、一見無気味におもわれる可淡の人形たちの眼差しも、決してそうではないことがわかる。それはむしろ優しさと絶対的な安寧を湛えた銀色に輝く湖だと表現しなければならない。つまり可淡の人形たちは、目を開いたまま穏やかに眠っている(=死んでいる)のである。
 声に関してはどうだろうか。可淡の創る人形の多くは微妙に口を開いている。語る筈のない人形の口がわずかに開いていることによって、わたしたちはその裂け目の奥に未だ声にならない人形の声を予感するのである。厳密な意味において、可淡が創ったものが本来の人形ではないとするならば、それは人形に姿を変えた花であり、花に姿を変えた痛苦であり、痛苦に姿を変えた死だといえるだろう。この痛苦としての死こそが、口の形をした裂け目から、声にならない声としてわたしたちの心に深く突き刺さってくるのである。彼女は決して「人形」を創ったのではない。

6, おわりに

 可淡は人形について次のようにいう。「人に愛されるだけの人形ではなく、人を愛する事のできる人形に。常に話しかけ、耳をかたむけ、時には人の心に謎をかける人形に。注意深く、彼女のガラスのリボンを解くのです。それがわたしの仕事だから。」
 可淡の人形はあたかも精神分析家のように機能する。自らが愛そのものとして、対峙する人の声に耳をかたむけ、時に謎を投げかける。目と口の裂け目のなかに、運よく向こう側の世界を垣間見ることができた人は、すべてを一瞬のうちに悟ることになるだろう。小さく開いた瞳孔の向こう側に展開する並行可能世界のなかで、実は可淡は生き続け、そこからわたしたちを今も見守り続けているのだということを、、、。
 こうして可淡は人形のガラスのリボンを解き、人形と自分に永遠という魔法をかけ、銀色の湖に囲まれた向こう側の世界へとワープし、そこで確実に生き続けているのである。



『天野可淡人形作品集 KATAN DOLL RETROSPECTIVE』天野可淡・吉田良著、エディシオン・トレヴィル、2007年12月24日、巻末エッセイとして所収


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