□ 超不定期日誌 Journal Ultracapricieux
2018.9.17 月
(二階堂奥歯『八本脚の蝶』タイトルロゴより引用)
本日、書類を整理していたら2003年4月10日に二階堂奥歯(佐々木絢子)さんと会っていた記録が出てきた。その16日後、彼女は自ら命を絶った。あれから15年、急いで駆けつけた斎場に安置された棺のなかの彼女の美しい顔が今でもありありと浮かぶ。
揺るぎない女性性の上で繰り広げられた鋭い感性と豊穣な知性の鬩ぎ合い。出版され、かつ今日でもウェブ上で閲覧可能な彼女の日記は、読む者を現在進行形で圧倒する。
亡くなる数日前に、わたしの携帯に彼女から電話があり、乗っていた電車から降りて割と長い時間話したが、その内容はうろ覚えであるのと引き替えに、そこが丸ノ内線四ッ谷駅の青空が見えるプラットフォーム上であったことは、今でもありありと記憶のスクリーンに映写される。

わたしのゼミやセミネールにも積極的に参加してくれ、特に2002年11月20日に東京藝術劇場大会議室でおこなわれた四谷シモン・吉田良・藤田博史の特別鼎談では彼女の独自の視線からセミネールの風景写真を多数撮ってくれた。そういえば映画監督押井守さんも聴講者として参加されていた。
もし、あの時、彼女が飛び降りることなく、生き延びていたら。そのようなパラレルワールドがどこかにあるのなら、41歳の彼女と、あの『君の名は。』のように、東京のどこかの駅で時空がねじれて出遇えるのかも知れない、もしかしたら、それは四ッ谷駅なのかも知れない、などと思ってしまう。
そんなことを心のなかで反芻していた今日の昼下がり。わたしはパラレルワールドが実在すると信じている人間のひとりであることを、今更のように再確認した。
2013.2.27 水
去る2月26日深夜、安藤喜一郎君が亡くなった。享年25歳。見事な生き様だった。まるで遠方から接近してきた彗星のように、わたしたちの前に現われ、高速度で横切り、そして再び、宇宙の彼方へ飛び去っていった。奇しくも9年10ヵ月前の同じ日、二階堂奥歯こと佐々木絢子さんも、やはり25歳という若さで自らの命を絶った。二人は共にわたしのゼミのメンバーだった。
わたしたちに投げかけられている25という謎の数字。そういえば、フロイトは人間というものは生まれて最初の5年間で人生のすべての基礎が作られるというようなことを考えていた。そして、その後の人生はその5の倍数で成立しているのだと。これを深読みすれば、5年ごとに人生はリセットされている、ということになる。5歳、10歳、15歳、20歳、25歳、、、確かに、わたし自身の人生を振り返ってみると、5の倍数の年に死に、次の年に生まれ変わる、ということを繰り返しながら生きてきたような気がする。
思い返せば、安藤君にとって最も重要なテーマは常に「父」だった。いうまでもなく、男の子にとっても女の子にとっても「父」は特別な存在だ。そして特異な存在だ。安藤君はこのことを常に考えていた。彼は、表向きには、右翼や、活動家や、サルトルや、ラカン等の思想に取り憑かれていたが、その内実は、厄介な「父の取り扱い方」なる「作法」を懸命に模索していたのだ。この「作法」は「父との折り合いの付け方」といい換えても良い。
「意識という現実」のなかでは、愛すべき父を愛せないこと、模範にすべき父を模範にできないことに悩んでいたが、意識の下では、ちゃんと父を愛し、模範にしていた。そして、その取り扱いの「作法」を今まさに意識化し、身に付ける寸前のところで、彼は「しくじって」しまったのだ。彼の死は失策行為だったのだ。「失策とは究極の成功のことである」とはラカンの言葉である。つまり安藤君は、死ぬことによって父から逃れ、同時に、死ぬことによって父と永遠に同一化したのである。そして彼の遺骨は、明日、自分が生まれ育った故郷へ還る。そして、25歳の若さのままで、わたしたちの記憶のなかに永遠に生き続ける。
安藤君、沢山の想い出をありがとう、そして、ひとまず、さようなら。

覚書
■AMP = Armani Maudit de Paris = パリの劫罰を受けた(呪われた)アルマーニ(の意)
■深読みすれば次のようなアナグラムを掬い取ることができる。
Andau maurt ne ris pas = Ando mort ne rit pas = 逝きし安藤冗談を言わず
■これをさらに深読みすれば、二・二六事件の背後関係処断により銃殺刑となった北一輝の最後の言葉(とされている)「わたしは死ぬ前に冗談は言わない」をも連想させる。
2008.4.26 木
対談はフレンドリーかつ和やかに進み、途中で熊木さんのファンお二人が対談席に座り、熊木さんとわたしが会場の席に座ってファンの談話に耳を傾ける、というハプニングも飛び出してさらに盛り上がった。対談時間は実に4時間!予定時間を1時間近くオーバーして終了したにもかかわらず会場の皆さんと共に心地よい時を過ごせたという一体感が余韻として残った。
「熊木杏里」という唯一無二の素晴らしい才能の行方を、会場に参加した全員がこれからもじっと温かく見守ってゆきたいと思ったに違いない。
彼女の多方面にわたるますますの活躍を期待したい。
2007.5.6 木
Photos : Ricoh GR Digital
2003.6.11 水
5月7日に寺崎氏が向こうから撮ってくれた写真。
カンソウ:ヤハリテンサイデシタ。

2003.5.7 水
バショ:新宿ゴールデン街「原子心母」2階
ジカン:ヨナカ
ハンセイジコウ・・・やはり所詮シロート写真でした、、、興味はむしろ寺崎氏が向こうから撮ってくれた写真、、、入手したらアップします。



2003.4.28 月

去る4月26日夜、二階堂奥歯こと佐々木絢子さんが亡くなった。享年25歳、自ら選択した、しかも若すぎる死。 ウェブ上に残された彼女の日記が彼女の死の意味を雄弁に物語っている。
しかしここでは、わたしは彼女の聡明な意思とともに、二階堂奥歯は別の平行世界へとワープしたにすぎないのだ、と考えることにしよう。
2002年12月5日の日記に次のような一節がある。
「枝分かれし続ける世界に責任をとることへの絶望をはっきり覚えたのは、ある年の劇場版ドラえもんを見たときのことだった。
『のび太の魔界大冒険』だった。その中で、しずかちゃんが敵のとりこになってしまう。これから生け贄にされるという時にのび太とドラえもんは「もしもボックス」を使う。「もしもこの世界がいつもの世界だったら!」ボックスから出てみると効果覿面、世界はいつもどおりである。空き地にはジャイアンがいるし、しずかちゃんはおふろに入っている。
「うまくいってよかった」と、のび太は言う。「……でも、ドラえもん、さっきとりこになっていたしずかちゃんはどうなったの?」
ドラえもんは言う「あれはパラレルワールドになっちゃったんだよ。あの世界はあのまま存在しつづける。この世界はこの世界で存在しつづける。もう関係ないんだよ」。しずかちゃんを見捨てるわけにはいかないのでのび太たちはまたさっきの世界に行く。」(二階堂奥歯『八本脚の蝶』より)
「あれはパラレルワールドになっちゃったんだよ。あの世界はあのまま存在しつづける。この世界はこの世界で存在しつづける。もう関係ないんだよ」
二階堂奥歯は「この世界」から「あの世界」へジャンプし、肉体と精神に魔法をかけ、そのまま平行移動してしまったのだ。
「この世界」ではもう会えない、つまり「この世界」では「死んで」しまった。けれど「あの世界」では、これまで通り、はにかみ、おびえ、そしていつものように目をくりくりさせながら、繊細で適切で震えるような言葉を紡ぎ続ける彼女が生き続けている。
将来、多世界相互で通信可能な「インター・パラレルワールド・ネット」が開発される日がやってきたなら、わたしたちはその時「あの世界」で「2003年4月27日」から始まる二階堂奥歯の日記が、引き続き書かれていたことを知るにちがいない。
★
明後日、4月30日は、二階堂奥歯こと佐々木絢子さんの26回目の誕生日。
「死」は「終わり」ではなくひとつの「始まり」。
わたしは、彼女が「あの世界」で確かに生き続けていることを確信している。
2002.8.21 水
なんと、前回の日誌から1年以上の間があいてしまった。これでは日誌ではなく「年誌」と呼んだ方がよさそうだ。
さて、この日は鈴木晶さんと 新宿ゴールデン街にある「原子心母」というバーで楽しいひとときを過ごした。かなり以前から間接的な形では存じ上げていたのだが、実際にお目にかかるのはこの夜が初めてである。前もって抱いていた想像を遥かに超えるとても魅力的な方である。酒を酌み交わしながらの話は多岐に及び、瞬く間に数時間が過ぎた。同席していたダンサーの鈴木冨美恵さんと鈴木晶さん(奇しくもダブル鈴木)は今月29日のわたしの公開セミネールに参加して下さる予定である。この日の経緯は鈴木晶さんのホームページ Sho's Bar (「鈴木晶の優雅な生活」8月22日の日記、「写真日記」)にも面白く紹介されている。ちなみに下の写真はライターで写真家の清水充(みちる)さんが撮ってくれたもので、Sho's bar で紹介されているものと同じものである。

左から、芸術批評・ジェンダー論の榊山裕子さん、鈴木晶さん、建築家の入門(いりかど)潤三さん、インテリアデザイナーの鍵山達也さん、私

左から、編集者(論創社)の君島悦子さん、榊山さん、鈴木さん、入門さん、鍵山さん、私

左から、君島さん、榊山さん、鈴木さん、入門さん、鍵山さん、私

カメラ目線?

右下のカウンター内の黒縁眼鏡のご仁は「原子心母」水曜日担当の不思議な雲水、黒宮雲巌(うんがい)さん

?杯目のFOUR ROSES で心地よさそうな鈴木晶さん、BOMBAY SAPPHIRE で眼が座っている私

左端はダンサーの鈴木冨美恵さん(丸刈り頭の素敵な女性)

2001.8.14 火
わたしは週に何日か形成外科医や麻酔科医になる。今日はその一外科医として働いている最中にある貴重な体験をしたので、医療スタッフへの感謝の気持ちも含めてここに書き留めておくことにした。何があったのかというと「目の手術中に(しかもまさにメスで切っている最中に)停電になってしまった」のである。ここの施設には非常用の自家発電は備えられていない。本当に「困った」、、、しかし優秀なスタッフの咄嗟のサポートにより難を逃れることができた。つまり「懐中電灯で」術野を照らしてもらいながら手術を続行することができたのである。薄暗い非常灯と懐中電灯の光だけ、、、空調を含めたあらゆる電気施設がストップした静寂のなか、、、意外にもこの異常な環境の方が手術に集中できたという不思議な感覚、、、貴重な体験であった。ということで下に掲げた2枚は機転が利くスタッフがその時撮ってくれた貴重な証拠(記念)写 真である。

停電前(麻酔中)

停電中(フラッシュで撮影)
2001.8.8 水

ミヅマアートギャラリーを後にしたわたしは三潴氏ご推薦の作家 会田誠氏の作品をこの目で確かめるべくアート・ショップ NADIFF(ナディッフ) へと向かった。「食用人造美少女・美味(みみ)ちゃん」と題されたショップ内の展示は、小料理屋のノリでもって、タイトルがお品書きの板の上に料理名として筆書きされ、美味(みみ)ちゃんを食材としたおすすめ料理が並べられていた。サドマゾヒズムに少女愛が加味されたような独自の作品世界は、紛れもなく性倒錯者のそれであり、昨今よく見かける自己愛やヒステリーに運ばれて成立している「現代美術」とは明らかに一線を画しているとおもわれた。多重人格者のように、次から次へと全く異なる様式で作品を提示し続ける異才は、明らかに数十年に一人出るか出ないかの逸材であることは言うをまたない。