謹 賀 新 年  2 0 1 4
世界はわたしたちがそのようなものと思っているものとはまったく懸け離れている


 ここに二枚の写真があります(クリックすると大きくなります)。向かって左の写真は、高校を卒業して京都で浪人生活を送っていた頃に、京都大学の正門前で、同級生の竹内君(真ん中)、太田君(向かって右端)と一緒に撮ったものです。まだ18歳の夏でした。ちなみに一番左に写っているのはわたしの妹です。もう一枚の写真は、同じメンバー、同じ場所、同じ服装で、昨年暮れに撮影したものです。京都の町屋を借り切って二泊三日でおこなわれた東筑高校の新聞部、文芸部の同窓会の折に、40年の歳月を経て、再現写真を撮ってみたのです。


 当時、東筑高校の新聞部と文芸部は個性派ぞろいのユニークなクラブでした。わたしは正式なメンバーではなかったのですが、所属していた山岳部の部室が新聞部部室の真下にあり、天井越しに合図を送ったり、二階に遊びに行ったりしては、どういうわけか新聞づくりのお手伝いなんかをしていました。当時、県下屈指の進学校で、そのなかでも特に頭脳明晰かつ超個性派ぞろいだったことをよく覚えています。そんな部員たちが「夜長の会」と称する同窓会を二年毎に行うようになってから昨年で六回目になります。わたしは今回初めて参加させていただいたのでした。下の二枚の写真は、宿泊先の町屋の居間および吉田神社境内で撮った集合写真です(クリックで大きくなります)


 思い返せば、昨年の新年のご挨拶(☞こちら「今年も、何人の懐かしい友人たちに再会できるか、楽しみです」と書かせていただきました。そして、この願いが通じたのか、昨年は本当に、様々な懐かしい友人たちと再会することができました。高校時代、英会話学校に通っていたときに一緒だった八幡南高校の秦さん。一歳年下でしたが、彼女の発音はまるでネイティヴ・スピーカーのようで、憧れの人でした。フォークソンググループを結成していたときの歌の上手な美少女本田さんとも40年ぶりに再会しました。また、信州大学医学部を卒業してから30年間会っていなかった親友の遠藤君は大阪から所沢まで訪ねてきてくれました(これらの再会はフェイスブックで紹介させていただいたのでご覧になった方もいらっしゃると思います)。こんな再会のたびにいつも不思議に思うことは、何十年もの時の隔たりがあったにもかかわらず、まるで昨日会った続きのように、話が自然に始まってしまうことでした。


 懐かしい顔に出会うたびに、わたしの心に浮かぶのは、精神分析の定石「わたしたちの無意識のなかでは時間は流れない」という経験的事実です。フロイトは「無意識」と題された論文のなかで次のように述べています。


 「無意識」システムの過程には時間がない。つまりそれは時間的に秩序づけられておらず、経過する時間によって変更されない。つまり時間との関係を持っていないのである。時間に関係づけるのは「意識」システムの仕事である。(フロイト「無意識」1915年)


 さらに「快感原則の彼岸」のなかでは次のように示唆しています。


 わたしたちの抽象的な時間表象は、むしろ、一貫して知覚ー意識システムの作業様式から取ってこられ、ひとつの自己知覚そのものに相当するようにみえる。(フロイト「快感原則の彼岸」1920年)


 つまり無意識は、何もかも永遠に閉じ込めてしまうタイムカプセルのようであり、時空の影響を遮断して様々な記憶を閉じ込めている保管庫のようです。そこへ、意識が扉を開いて、内部をのぞき込んだ瞬間に、時間が再び動き始めるのです。身体は歳をとる、しかしその身体のなかに格納された記憶はいつまでも歳をとらない。だから、このタイムカプセルのなかには、もうこの世にいない懐かしい人たちの情報もまた、新鮮なまま生き続けているのです。ですから、この先、多世界を形成している無意識のなかを、量子論と精神分析に基づいた方法に従って、上手くのぞくことができるようになれば、もう二度と会えないと思っていた人たちに再び出会うことも可能になることでしょう。何を夢見ている、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしは物理学的、精神分析的に可能であると考えています。


 特にこの十年の間、わたしは無意識の扉を開く様々な技法について思索をめぐらせてきました。無意識を開く技法には、容易なものから難しいものまでいくつもの方法があります。一番身近なものは「夢を見る」ということでしょう。実際、幼稚園の頃に仲の良かった友達にも、若くして天国にいってしまった父や母にも、夢のなかで「実際に」会うことができるのです。ただし、会いたいときに会えるのではなく、向こうからやってくるのを待っていなければなりませんが。


 「会いたい人に夢で会える」ということ、これは当たり前といえば当たり前のことですが、この当たり前の事実を詳細に調べてゆくと、量子論的な心的多世界の探求へと繋がってゆきます。夢はもう一つの現実であり、現実はもう一つの夢なのです。昨年のご挨拶で「わたしたちの心的な世界は一つだけではなく、幾つもの世界から成り立っていて、それぞれの世界を結ぶメトロがある」と書きました。これはロマンチックな空想でも、幻の話でもありません。わたしたちの意識と心的世界と物理世界が創り出しているひとつの事実に関することなのです。



 現代の脳科学では、人の記憶や情動および皮質相互の連絡には大脳辺縁系が関与していることがわかっています。そのなかでも言葉によって陳述される記憶については海馬(ヒポカンパス)が重要な役割を果たしていることもわかっています。つまり無意識というタイムカプセル解明の鍵を握っているのは、この海馬ではないかという予測も立っています。これまで原因や発症のメカニズムがわかっていなかった精神病や自閉症も、海馬の研究が進むにつれて、その原因が明らかになってくることでしょう。


 奇しくも今年は午(うま)年。海馬機能の量子論的かつ精神分析的研究を推し進めよ、という暗示だと勝手に受け取って、本年度のセミネールのテーマを「海馬症候群(ヒポカンパス・シンドローム)」にすることに決めました(☞こちら)。「海馬症候群」という名称は、今のところ、わたしの造語です。世界で、まだだれもこの名称を使っていません。しかしながら、これまで原因のわからなかった精神疾患の根幹的な病理を海馬が担っていることが明らかになるにつれ、この名称は一般的なものになるはずだと考えています。


 研究が進めば、世界はこのタイムカプセルをのぞき込むたびに作られる、意識の強度や状態に依存したひとつの虚構であることもわかってくるでしょう。わたしたちは「限られた知覚と、限られた情報のみで再構成された世界」を「世界そのもの」と錯覚して生きていますが「今ここ」での知覚も、一旦脳のなかで記憶に置き換えられて、再生されているのです。つまり、すべての「今ここ」も、録画しながら再生しているレコーダーのように、厳密な意味で「記憶の再生」として「上映されている」のです。


 近い将来、世界は、意識が関与する観測に連動して変化する物理系であることも明らかになることでしょう。つまり「世界はわたしたちがそのようなものと思っているものとはまったく懸け離れている」ということも理解されるようになることでしょう。


 申し訳ありません。回りくどく、わかりにくい新年のご挨拶になってしまいました。もちろん読み飛ばしていただいて結構です。この歳になってもまだ「前人未踏の地を歩いてゆきたい」という少年時代からのわがままな希望が、いまだに続いていることに、自分自身驚いています。今年もまた、わたしの思索を支え続けてくれる皆さんに感謝しつつ、量子論と精神分析とが手を取り合い、新しい地平を切り開いてゆくことを信じて、新たなスタートを切りたいと思います。


 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2014年1月1日 藤田博史






BGM:熊木杏里 「0号」