□ 書評 BOOK REVIEW


松岡正剛『フラジャイルー弱さからの出発』筑摩書房 サイズ:21cm x 15cm 397頁 700円

「弱さ」の博物学

藤田博史
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 フラジャイルーーーこれは単純なようでいて極めて多様な概念だ。松岡氏はこの多様性を描き出すために、知の全体ではなく部分から、抽象的なものではなく具体的なエピソードから「フラジャイルの哲学」を説き起こしてゆく。「弱さ」をめぐって自由連想のように運ばれてゆく氏独自の語り口には、知の豊饒さ、情の深遠さ、そして意志の繊細さが絶妙のバランスで織り込まれている。性急な理論化を遠ざけ、実例を挙げながら対象の細部を丹念に点検してゆく姿勢は博物学者のそれであり、「固有名」を次々と登場させながら進行する「弱さ」をめぐる語りは、「博物学的帰納法」とでも呼ぶべき手法によって、フラジャイルなものたちの輪郭を線画のようなタッチで浮かび上がらせてゆく。

 それにしても、フラジリティを扱う博物学にはどこかフェティシズムの香りがするのはどうしてだろう。細部や儚さに対する感度を高め、人が見過ごしたり無視したりする出来事の一つ一つの前で立ち止まってみせること、あるいはそのような「場」について敏感であること、これらの仕種には男色や少女愛のもつ感受性に極めて近いものが潜んでいる。芸術や文学における創造性と性倒錯の非日常性はどこかで交錯している。本書で展開されている「弱さ」の博物学においては、数多く登場する「固有名」が重要な役割を担っており、巻末には人名だけで約千名にも及ぶ索引までもが用意されている。夢や狂気といった、儚く壊れやすいものがしばしば個別で断片的であるように、フラジリティと固有名とは密接に結びついている。ちなみに人間存在に潜む脆さの究極の証人である「白痴 idiot」という語の起源は「個人」を意味するギリシア語「idiotes」である。

 さらにここで、著者が「弱点の相転移」と呼ぶ重要な逆説、すなわち個別の「弱さ」が「強さ」へと反転する可能性について触れておく必要があるだろう。たとえば「弱さ」は集合することによって確固たる「力」へと変換され得るのである。これは民主主義の原理でもある。人類はネオテニー(幼形成熟)によって特徴づけられるフラジャイルな生物とされるが、「壊れものであるこのわたしのことを大切にしてください、愛してください」という「弱音」を吐きつつ、これを逆転させて「文化」という強大な力を生み出す「強い存在」でもある。人類は生き延びてゆくために、自らの根源的な「弱さ」を「暴力」に変換しながら、この美しい星の上でさまざまなものを破壊し続けている。人類の存在様式そのものが「愛されたい」という存在の欲望に基づいた倒錯形から出発している以上、サディスティックな破壊行為をやめることはできないだろう。弱さの擁護がそのまま個別性の擁護となり、辺縁に追いやられたもの、虐げられたもの、弱いもの、排除されたものがパラドキシカルな形で巨大な力へと変換されてしまうところに文化の特異性がある。

 その意味で、本書はフラジャイルな者だけに許された境界侵犯の楽しみを教えてくれると同時にフラジリティのもつ「無気味さ」と「危うさ」をも逆説的な形で暗示している、二重拘束的なメッセージを内包した稀有な著作といわなければならない。

・群像(講談社)1995年12月号(第50巻第12号)356頁に掲載

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