□ 書評 BOOK REVIEW


新宮一成『ラカンの精神分析』講談社 新書判317頁 700円

精神分析的な一つの「賭け」として一つの新書を「書く」という目論見 ※註
「 対象aは黄金数である」というテーゼをめぐる語らい

藤田博史
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 著者新宮一成氏にはすでに『夢と構造ーフロイトからラカンへの隠された道』(一九八八年、弘文堂)『無意識の病理学ークラインとラカン』(一九八九年、金剛出版)という、フロイト、クライン、ラカンの精神分析に関するすぐれた著書がある。これらはいずれも専門家を対象とした論文集であり、そのために一般の読者の目に触れる機会は限られていた。このたび書き下ろされた本書は、広い読者層を想定した「新書」であり、これは新宮氏にとって一つの新しい「試み」あるいは一つの精神分析的な「賭け」になっている。さらに、注意深い読者ならば、本書がその入門的な体裁とは裏腹に、巧妙な「謎掛け」の装置として機能していることを最後の章において発見することになるだろう。結論を先取りするなら、この著作は明らかに一般の手引き書では収めることのできない過剰ななにものかを含んでいる。

 そもそも精神分析を扱う手引き書じたい、これを書くことは容易なことではない。書く者の立場からいえば、広い読者層を想定した「新書」を書くということは、論文を書くことよりもはるかに難しい作業である。とくに人間の「欲望」そのものを扱う精神分析の場合、書き手である自分自身の欲望がまず問題になってくるのであるから、著者の欲望が、執筆を依頼している編集者の欲望とどのような関係にあるのかを問わずに済ませておくことはできない。この基本作業を怠れば、著者はいとも簡単に編集者の欲望を充足させる道具となってしまうだろう。

 編集者あっての著者なのか、それとも著者あっての編集者なのか、さらにいうなら「だれ」が「だれ」に「なに」を書かせているか、それが問題である。依頼によって書かれた原稿には、それがどれほど依頼者の欲望から自由であるようにみえても、必ず依頼者の欲望の痕跡が印されている。ここに編集者の依頼に応じて原稿を書く」という行為を遂行する欲望が直面せざるを得ない固有の困難が潜んでいる。実際、わたしたちは「書かれたもの」を前にして、本当は「だれ」が「なに」について書いているかということに気づかないままでいる。

 本書『ラカンの精神分析』を読み進めながら、わたしの心から片時も去ることがなかったのは、この根本的な困難を新宮氏はどのように解決するのだろう、ということであった。しかもこの困難は決して他人事ではなく、いまここで、わたし自身が直面しているものであり、さらにいうなら、これは「汝、何を欲するか Che vuoi?」という天上からの問いに真摯に答えなければならない「話す存在」そのものの「当為 devoir」でもある。

 これに対し、新宮氏の答えはきわめて明快なものであった。読者は「もっとラカンを」と題された最終章に到達したとき、本書を貫く新宮氏の欲望がきっぱりとしたものであることを事後的に発見するのである。すなわち、冒頭で紹介された女性患者から始まって、ナジャーエメークラインー胎児殺しの夢をみた女性ーイルマ・・・という、いわば「在不在交代」の連鎖のなかで姿を変えながら登場し続けた「彼女」が、最終章において著者に原稿を依頼した女性編集者でもあることが明らかになったとき、わたしたちはこの「彼女」こそが、著者に本書を書かせている当の欲望の原因の場所の隠喩にほかならないことに気づく。なるほど対象a、黄金数、アガルマ、愛といった内容上の主題も、本書ではこの「彼女」の変化形としての資格を得て生き生きと輝いている。

 それにしても、この「彼女」とはいったい「だれ」あるいは「なに」なのか。その答えを本文のなかに見いだすことは不可能である。ともあれ「精神分析に関する新書を書く」という行為そのものが精神分析的な一つの「掛け」であり、このような「謎」を生じさせてしまう以上、最初に述べたように、この著作は明らかに、一般の手引き書では収めることのできない過剰ななにものかを含んでいる、といわざるを得ないことだけは確かなようにおもわれる。(精神分析学)

・図書新聞2282号(1996年2月17日)に掲載

※註:掲載時に、著者に無断で、編集者によって『精神分析的な「賭け」』という短いタイトルに改変された。書評じたいの内容を鑑みても編集者の独断によるタイトルの改変は本来あってはならないことである。無論この改変されたタイトルはこの書評のタイトルとして相応しくない。

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